――まずはインタビューのお時間をくださり、ありがとうございます。お店に来ることができてほんとうに嬉しいです。
さて私の中でアヤトさんの印象は、最初期のハモネプへの出演です。当時「こすへらす」というグループで出演し、「ニコラス」というニックネームで、「おっくんやけんぞーのボイパのライバル」というかたちで登場されました(※1)。
アヤトさんはボイパが流行する前からいち早くその技術を身に着けて活躍されてきたと思います。どのようなきっかけではじめたのでしょうか。
小野アヤト(以下、小野):アカペラをはじめたのは1997年、関西大学アカペラサークルBrooklyn304に入ったことがきっかけです。
当時、アカペラの存在はまったく知りませんでした。「音楽のサークルに入ろう」を探していたとき、妹が「アカペラがめっちゃ面白いよ」と教えてくれたのです。自分は浪人していて妹と同学年だったので、サークルの情報交換ができていました。ちなみに妹は筑波大学のアカペラサークルDoo-Wopに入っており、奥村くん(※筆者注:ヴォーカルパーカッショニスト・元RAG FAIR奥村まさよし)の後輩でした。
そんなとき、校門で歌いながらビラ配っている人たちに遭遇した。「これがアカペラか」と。とくにボイパしている先輩がひとりいて、その音にはほんとうにびっくりしました。入部し、さっそくその先輩に教わりつつボイパをやってみました。するとすぐにできてしまった。おれ、天才だったのかもしれません(笑)。
――ボイパは習得するのには時間がかかるものですが、すぐにできてしまうのはすごいですね!しかも当時はボイパの演奏者がほとんどいないような状況だったと思います。
小野:もちろん「ボイパ」という言葉自体がなく、他人に意味が伝わらないような状況でした。今は「ボイパ」といえば多くの人に通じる。それはハモネプの巨大な功績だと思います。
当時はそもそもアカペラサークル自体が少なかった。Brooklyn304はその2年前(1995年)にできたばかりで、メンバーも20人ほどと少なかった。関西には当時、京都大学のCrazyClefとうちにしかサークル無かったと思います。ちなみに東京では、東京大学のLaVoceができたくらいのタイミングでした。早稲田大学のStreet Corner Symphonyだけ飛び抜けて歴史は長いけれど、まだまだサークル数は全国でも数えるくらいでした。
当時ボイパを駆使して、相当いろんなサークルに顔を出しました。ボイパは誰にでもできるわけじゃなく、さらに楽譜がなくてもある程度その場で合わせられるという強みがある。だから重宝されました。
ぼくが大学に入学した頃、ちょうど大阪大学のアカペラサークルinspiritual voicesが生まれた。アカペラグループINSPi(※2)の原型です。ぼくにボイパを教えてくれた先輩がINSPiの初代ヘルプメンバーとしてボイパをし、ぼくも2代目として半年くらいヘルプしました。その後現メンバーの崇文くん(筆者注:渡邊崇文…INSPi現メンバー)が正規メンバーになっていったわけです。
99年には神戸大学のアカペラサークルGhannaGhannaができました。そこもメンバーが10人にも満たなかったから、学校祭のときなどはヘルプで入り、その場でグループを組んで盛り上げました。そのほかにも、各サークルのメンバーをひとりずつ集めて立命館大学の学祭に遊びに行き、曲を演奏したりしていた。
どこに行っても、ボイパはほんとうに重用されました。そしていつからか「これは交流にうってつけの技術じゃないか」と気づきはじめた。曲を知らなくても混ざれてしまうのです。ほかのパートだったらそうはいかない。いちばん社交力が発揮されるパートなんじゃないかと思いました。
――関西地方の大学生としていち早くボイパを身につけ、それを武器にして各サークルの人たちとつながっていった様子がわかります。その後アヤトさんは「関西ドリームチーム」というかたちで「こすへらす」というグループを結成し、ハモネプに出演されていますね。
小野:アカペラをテーマにしたテレビ番組のコーナーがはじまることは、妹を通じて知っていました。先にも言いましたが妹は奥村くんの後輩です。「おっくんが制服でテレビに出るらしいよ(笑)」みたいなメールが来たのを覚えています。
その頃、のちに「こすへらす」を一緒に組むメンバー(だいすけ)から、「自分たちもハモネプに出たい」という連絡があった。当時ぼくたちは、第4回Kaja!(関西アカペラジャンボリー、※3)の実行委員でした。「Kaja!の宣伝になるのではないか」と思い、実行委員どうしでグループを組んだのが「こすへらす」の始まりです。
ハモネプでの思い出はいろいろとあります。第1回の全国大会の直前、こすへらすは非常に高い完成度で「未来予想図」を作り上げました。しかしバラードは番組の制作サイドから求められなかった。「君たちははげしい曲が持ち味じゃないか」と。
結局予選では、制作サイドの意向を汲み「どうにも止まらない」を演奏しました。しかし高得点を取ったにもかかわらず予選敗退した。決勝に選ばれる基準が、高得点順ではなかったのです。大人による、とても大きく見えない手によって、地面に押し付けられるようでした。くやしくて涙が出たことを覚えています。
その後「第2回大会も出てくれないか」というオファーが制作側から来ました。日程的には全国大会へ出場できないことはわかっていましたが、第1回大会で「未来予想図」が演奏できなかったことが心残りだったので、出演することに。当日は、渾身の力と気持ちを込めて皆で演奏しました。すると、ぶわぁーっとスタジオの雰囲気が変わったのを感じた。演奏後、ネプチューンの名倉さんに「おまえら歌めっちゃうまいんやな」と言われたことは、ほんとうに嬉しかった。今の音楽活動につながっていると思います。
ハモネプに関することをもう少しだけ。じつは2000年くらいに、テレビ制作会社「IVSテレビ制作」の女性スタッフが、お台場の野外ステージでチュチュチュファミリー(※4)が歌っている姿を見ていたそうです。これがハモネプがはじまったきっかけのひとつだったらしい。IVSは当時、若者の青春を追いかけるような企画を探していて、チュチュチュファミリーのアカペラを見たのをきっかけとして奥村くんを見つけ、高校生のグループを見つけて…という流れでハモネプができていったという話を聞いています。
ちなみに当時チュチュチュファミリーはアカペラをつかったエンターテインメントショーを駆使しており、あの「ボキャブラ天国」に出演していた。キャッチフレーズは「暗黒のハーモニー」だったそうです(笑)
※1…こすへらすについては当サイト「ハモネプの物語」も参照されたい。下記関係箇所を引用する。
…なかでも西日本各地の精鋭によって結成された「こすへらす」の存在は特筆すべきであろう。同チームは2001年6月の中・四国地区予選に登場し「打倒!おっくん 全員がボイパのドリームチーム」という紹介がなされた。 「ニコラス」(小野アヤト、のち「チュチュチュファミリー」ほか)を筆頭にメンバー全員がボイパを演奏するこすへらすにたいし、宿命のライバルであったおっくんとけんぞーがタッグを組み、ボイパバトルを展開した。まるで少年漫画のワンシーンのような演出である。…
なお「こすへらす」のメンバー・国代哲はその後プロアカペラヴォーカルグループ「clearance」のリーダーとして活躍するなど同グループはアカペラ界にさまざまな影響を与えている。
※2…INSPi・・・1997年に大阪大学でINSPiの原型「inspiritual voices」を結成。翌98年には同名のアカペラサークルを創設。2001年に「ハモネプ」出演、同12月に「Cicada's Love Song」でメジャーデビュー。現在も国内外のコンサートなどアカペラのみならず音楽シーンの第一線で活躍を続けている。
※3…Kaja!・・・関西アカペラジャンボリー。日本最大級のアカペライベントのひとつ。1998年から歴史を数え、過去にはチキンガーリックステーキやPHEW PHEW L!VEをはじめBABY BOO、チュチュチュファミリー、PYLON、トライトーンなど様々なプロアーティストも出演している。
※4…チュチュチュファミリー・・・1997年結成。「ボキャブラ天国」をはじめさまざまなバラエティ番組に出演する「アカ・ペラスーパーヴォーカルエンターテインメント団」。2006年に解散したが2016年に「ザ チュチュチュファミリー」として復活。不定期で活動している。