――インタビューに入る前に、ざっと奥村さんの経歴を整理したいと思います。
まず大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎に在学していた1995年、当時史上最年少で気象予報士資格を取得し話題となりました。
筑波大学入学後は、日本を代表するアカペライベント「JAM」(※1)を立ち上げ、その後フジテレビ「力の限りゴーゴゴー」の人気コーナー「ハモネプ」に出演しました。アカペラグループRAG FAIRでは紅白歌合戦への出演などされ、ボイパやアカペラの存在を全国に広めました。
2011年には東日本大震災発生後すぐさま被災地へ赴き、主に牡鹿半島でボランティア活動に取り組みました。防災士資格もお持ちとのことですね。
そして、通算8年間にわたる保育現場での経験も特筆すべきです。2011年には保育士資格を取得し、横浜市の保育園で主任保育士として勤務されました。2015年には横浜国立大学の大学院に入学し、幼児教育の研究を行うなど「保育のスペシャリスト」としての側面もお持ちです。
このように多方面で活躍されてきた奥村さんがこのほど、「保育における諸課題の解決」を掲げ、政治家への道を歩み始めました。
ここでひとつ疑問があります。なぜRAG FAIRを脱退し、この道を進むことにしたのか。進む道が政治家でなければならなかった理由とはなんなのでしょうか。
奥村政佳(以下、奥村):政治家を志すきっかけは、2016年頃にさかのぼります。その頃ぼくは、横浜国立大学の大学院で幼児教育についての研究をしていました。
保育業界には、問題点が山積していました。業務過多や待遇の低さのため保育士の人員が不足しており、この状況が続けば保育の質の著しい低下につながっていくおそれがありました。当時は「東京大学発達保育実践政策学センター」(Cedep)が立ち上がるなど、保育業界で解決に向けた議論が本格化していた時期でもありました。
OECD(経済協力開発機構)は報告書で「保育はまず質を担保しないといけない。保育士の数を増やしただけでは、長期的に見れば悪影響にもなる」という趣旨の研究結果を示していました。しかし、政治の場では、保育所の数を増やす方向で議論が進んでおり、エビデンスに基づく政策議論がなされていないと感じていました。
幼児教育・保育無償化が消費増税とセットで議論されていることにも疑問を感じていました。保育問題が、票を逃さないためのパフォーマンスに使われているように、ぼくには見えました。
議論の動き出しそのものが遅いという問題もあります。ぼくは2012年から横浜市港北区の保育園で保育士として勤務していたのですが、当時すでに「職員が足りない」「質も確保できない」という切実な問題がいっぱい出ていました。現場で起こっている課題をスピーディーに政治の場に上げていく人がいないのだろうなと、感じていました。
そもそも保育の現場は、当事者の叫びが社会に届きにくい構造的な問題があります。保育士は離職率が高くて定年まで勤める人が少なく、労働組合などもありません。声が届かなければ悪循環が進むばかりです。
保育園の担任が何度も変わることがよく見られます。子どもとの関わりについての論文では「アタッチメント(愛着)」という言葉が出てきます。保育園に通う時期は、基本的な人間同士の愛着が醸成される年頃であり、せっかく慣れてきた頃に担任が変わってしまうのは、子どもにとって悲劇なのです。「子どもはどんな環境でもたくましく育つ」などとよく言われますが、それはもう少し成長してからの話です。
体制がしっかりとしている保育所もあれば、必ずしもそうではない保育所もあります。これも大きな問題です。保育士の数があまりに少なく「就職3年目で園長になった」という話もあります。保育士の仕事は、子どもと遊んだり教育をするだけではありません。お父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんとのコミュニケーションも大切な仕事です。「子どもはどうでしたか」「子育てに不安はありませんか」といったやりとりに時間が割ける保育園と、体制的に難しい保育園がある現状は、やはり大きな問題です。
「日本の未来を考えたとき、子どもにちゃんとお金も人もかけていかないでどうするのか」。そんな強い思いを抱き続けていました。
政治家になるということは、とんでもなく大きなものを引き受けることです。ぼくは最近結婚したばかりだし、子どもが生まれたばかり。のんびり過ごせればそれに越したことはない。でも、「誰かがやってくれないかな」「こうなればいいな」とぼんやり思っているだけでは変わらない。現場を少しでも経験してきた自分が、政治家という立場に立ち、現場の声を届けなければならないと考えました。