2.鉄道音まねからボイスパーカッションへ

ボイスパーカッショニスト北村嘉一郎×エアトレインチャンピオン佐藤卓夫 対談

初めてアカペラを見て「ボイスパーカッションから目が離せなかった」という佐藤
初めてアカペラを見て「ボイスパーカッションから目が離せなかった」という佐藤

■生演奏に衝撃を受けてアカペラサークルへ

 

――お二人のもうひとつの共通項は、ボイスパーカッションです。口だけで表現するという意味ではエアトレインと似通っていますが、背景の文化はまったく異なります。始めたきっかけを教えていただけますか。

 

佐藤:口でリズムを奏でることに初めて関心を持ったのは、ヒューマンビートボクサーのAFRAさん(※1)が出演している富士ゼロックスのテレビCMを見たタイミングです。当時は高校生でした。

 最初は彼が何をやっているのかが理解できず、「なぜこの人は一人で踊っているんだろう」とぼんやり見ているだけでした。ところがよくよく見てみると、口から出していることがわかってきた。すごく興味を惹かれたのを記憶しています。ただしその時点では、それを自分もやってみようという考えはありませんでした。

 本格的に始めようと思ったのは、東京大学に入ってからです。キャンパス内のストリートライブを見て、ドラムの音を口で鳴らしている姿を生で見て、衝撃を受けました。ライブ中はその人しか目に入らず、勢いのまま入部を決めました。

 ただし、1年目はボイパがまったく上達しなかったですね。やはり、鉄道の音まねとは、わけが違います。コーラスパートをやったりしましたが、やはりどうしてもボイパがしたかったので、ひたすら練習を重ねました。

 上手くなっていくうちに、徐々にグループに誘ってもらえるようになりました。当時はサークル内にボイパ奏者がそう多くはなかった状況もあり、最大7グループほど掛け持ちしていましたね。ハモネプに出場したのも、その頃です。

 

■「吸うスネア」の原点はジョイント音

 

北村:ぼくがボイスパーカッションを本格的に始めたのは早稲田大学に入ってからですが、それ以前に、「ウォークマンから漏れる音まね」(※2)をしていました。今のボイパの原型となっています。当時のウォークマンは、ヘッドホンというよりも、音の出るパットを耳に押し当てるような形状で、音漏れが社会問題になっていたんですよね。 

 

佐藤:ヘッドホンの音漏れ…すごい着眼点です。ご自身で考案されたのですか。

 

北村:そうです。ぼくが音まねするときは「逆引き辞典」のような発想でした。つまり、口から出てくる音が、何の音に似ているのかと客観的に聴き、仕分けしていくんですね。

 ちなみに、ぼくのボイスパーカッションのスネアドラムの音は、鉄道のジョイント音の音まねを起点として編み出したものです。息を吸いながら鳴らすのですが、この手法のおかげで呼吸が楽になり、ジャズの表現をどんどんと広げていくことができました。のちに海外のグループにも注目していただける表現力を身につけられたのは、元をたどると、鉄道の音まねのおかげなんです。

 

■「SCS」の自由な雰囲気に魅了

  

――アカペラサークルには大学入学後、すぐに入部したのですか?

 

北村:大学に入った頃はアカペラサークルではなく、アナウンス研究会に所属していました。逸見政孝さんにあこがれてアナウンサーになりたかったのです。学校祭の時に大隈講堂の前にサテライトスタジオをつくって、生ライブ形式の放送番組をやっていたのですが、その中の30分番組の編成を、1年生のぼくが任されたのです。

 音楽が好きだったので、音楽関係の番組をつくりたいなと思ってキャンパスを歩いていると、たまたま歌っている人が目に留まったんです。「何をやっている人ですか」と尋ねると、彼らは「アカペラだ」と答えます。アカペラサークルのStreet Corner Symphony(ストリートコーナーシンフォニー、SCS)でした。歌っているメンバーの中には、のちにゴスペラーズ(※3)として活躍する安岡優くんもいました。

 直感的に「これだ」と感じ、ぼくがインタビュアー兼生徒となり、アカペラの仕組みについて学ぶ番組をつくることにしました。番組中、一緒にハモったら、とても楽しかった。そこで後日、放送とは関係なくSCSの総会に行ってみました。すると、決め事もそこそこに、メンバー同士が集まって歌い始めるのです。そのような自由な雰囲気にも惹かれ、入部を決めました。

 

■河川敷で聴いたサンバドラムに衝撃

多摩川のジャズイベントで受けた感動を振り返る北村
多摩川のジャズイベントで受けた感動を振り返る北村

 

北村:入部して最初に先輩から「君はなにができるの」と問われたので、ウォークマンの音まねを念頭に「リズムのまねごとができる」と答えました。すると「うちのグループのヘルプとして入ってくれないか」と誘われたのです。

 そのグループの正規メンバーこそが、現ゴスペラーズの酒井雄二さんでした。つまり、酒井さんの予定が合わないときの代打として誘われたというわけです。

 酒井さんのボイスパーカッションは、当時から音のクオリティもリズム感も抜群でした。もちろん、歌も上手だし、編曲もできる。サークルの中でも人気がありました。そんな酒井さんに、ぼくのボイパを聴いてもらえて、なおかつ「がんばんなよ」と言ってもらえたのは励みになりましたね。

 そのグループでは、NOKKOさんの「Vivace」という曲を演奏しました。サンバ調なのですが、当初はリズムに関する知識はなく、ただ16ビートで刻んでいただけでした。

 サンバドラムを知ったのは、ちょうどその直後です。多摩川の河川敷で世田谷区が主催する「ザ・リバー・ジャズ・フェスティバル」というイベントを見に行ったところ、小野リサさん(※4)が出演しており、ブラジルの音楽が流れてきたのです。

 すごい熱気で、アンコールが終わっても歓声が鳴り止みませんでした。そのうち、パーカッションドラムによるリズムの掛け合いが始まりました。それが本当にすごかった。会場の熱量に、激しく心を動かされたのを覚えています。「ドラムをやりたい」と決心し、すぐに教室に通い始めました。それからは、ドラムとボイパの行ったり来たりで技術を高めていきました。

 

■入部から約1年でプロのアーティストに

 

――TRY-TONE(トライトーン、※5)に加入するのは、3年生の頃だと伺っています。アカペラを始めてから、ほとんど日が経っていませんね。

 

北村:アカペラを始めたのが1年生の最後の方なので、1年ちょっとでプロになってしまった計算になります。今でも信じられません。

 トライトーンはすでにSCSを卒業してプロとして活躍していたのですが、あるとき新たなメンバーを募集したいということで、サークルの総会に多胡淳さんと貞國公洋さんがいらっしゃったのです。会場に突然2人がいて、ざわついたのを覚えています。

 壇上で二人は「我ぞと思う方は来てください」と話した上で、オーディション用の2種類の譜面を置いていきました。サークル員同士、「おまえオーディション行けよ」「おまえが行けよ」なんて牽制し合っていたのですが、じつはみんな応募していたのを後から知りました(笑)。それほど、魅力的なチャンスだったんですね。

 結果的に、ぼくが採用されました。ただし、「とりあえず1月5日の帝国ホテルのイベントに一回だけ参加してくれ」という内容で。そこから11年間活動したわけですから、人生は何があるかわかりません。

 歌の上手なサークル員はほかにもいました。そんな中、どうしてぼくが採用されたのかと、後になって尋ねたことがあります。決め手は、ボイスパーカッションだったようです。あとは、鉄道の音まねが面白かったと言ってもらいました。子どもの頃から練習してきた技術が、あのような形で実を結ぶとは思いもよりませんでしたね。

 

――プロとしてやっていくのは相当な覚悟が必要だったと思います。どのようにして決意したのでしょう。

 

北村:トライトーンとして活動を始めてからしばらくの間、親には伝えていませんでした。発覚のきっかけとなったのは、コンサート衣装でした。

 衣装は普段、スタジオに置いてあるのですが、その日は翌朝が早かったので持って帰ったんです。クローゼットにしまって風呂に入っていたところ、たまたま母が開けてしまった。

 その衣装は、エメラルドグリーンのスーツで、裏地がカナリア色。総武線カラーと常磐線カラーのハーモニーということでぼくは気に入っていたのですが、普段着としては見るからにおかしい。脱衣所のドア越しに「なんだこれ」という母の悲鳴が聞こえました。

 そこから家族会議です。「変なバイトをしているんじゃないでしょうね」と問い詰められたので、正直に、プロとして活動をしていることを話しました。

 当時は学生ですから、親としては息子の将来が心配なのでしょう。父には「その仕事で食っていけるのか」と聞かれました。思い返すと、父とのこうしたやりとりは、3度目でした。劇団四季に入りたいと言ったとき。ピアニストになりたいと言ったとき。そして今回です。

 これまでは何も言い返せずに諦めていましたが、今回は初めて「やれるところまでやってみたい」と主張しました。トライトーンのようなグループで活動できるチャンスは、今しかないという思いがあったのです。

 

※1…AFRA/1996年にN.Y.セントラルパークで見たThe RootsのビートボクサーRahzelのパフォーマンスに衝撃を受け独学でビートボックスを始める。高校卒業後N.Y.へ単身渡米、映画「Scratch」出演や、唯一の日本人として出演したビートボックス・ドキュメンタリー映画「Breath Control」などにも出演。AFRA公式ページ(http://afra.jp/)より引用。

※2…「ウォークマンから漏れる音まね」は、日本のボイスパーカッションの先駆者・Mr.No1seもレパートリーとしていた。詳細はインタビューより

※3…ゴスペラーズ/1991年、早稲田大学アカペラサークル「Street Corner Symphony」で結成。2001年リリースのシングル「ひとり」が、アカペラ作品としては日本音楽史上初のベスト3入りした。代表曲は「永遠に」「星屑の街」「ミモザ」など。

※4…小野リサ/日本におけるボサノバの第一人者。海外においても高い評価を得ており、カルロス・ジョビンや、ジョアン・ドナートら著名なアーティストと共演し。1999年にはアルバム「ドリーム」が20万枚を越えるヒットを記録。これまで日本ゴールドディスク大賞「ジャズ部門」を4度受賞している。

※5…トライトーン/1992年、早稲田大学アカペラサークルStreet Corner Symphony(SCS)内で結成したアカペラグループ。1994年「Etoile/12の星の物語」(ビクター)でメジャーデビュー。2001年アメリカBest Recording Awardsにおいてアルバム「A Cappella MAGIC BOX」が最優秀ジャズアルバムを受賞。公式HP(https://www.try-tone.net/)より引用。