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ツイッターをやめたことと、言論の自由について

 ツイッターをやめてしまった。

 当サイトは、ツイッターをきっかけとして多数の方に認知され、ぼく自身もボイパ のキーマンと出会うことができた。そして、ツイッターのおかげで、かけがいのない友情を育むことができた経緯がある。だから、やめるには相応の勇気が必要だった。しかし、いざやめてしまってからしみじみと感じるのは「自由」である。

 

 ぼくはツイッターを続けることによって、いつしか、不自由を感じていた。

 

 よく知られている通り、SNSは利用者の承認欲求を満たすことを目的に設計されている。ぼくもまた承認欲求を満たしたいがためにツイッターを利用してきた。「いいね」が増えればうれしいし、「業界の著名人」に言及されれば、天に登るような気持ちにもなった。

 その一方で、制約も、増えていくばかりだった。

 

 「もっと〇〇したほうが良いのではないか」

 「これは〇〇という表現に変更したほうがいい」

 「〇〇を取り上げたほうがいいよ」

 

 意見はうれしかった。参考にできるものは取り入れた。

 吹けば飛ぶようなサイトに、忌憚なく前向きな意見をいただいたことについては、とてもありがたいし、感謝している。

 しかしそれらの意見を内面化するうち、書きたいことが少しずつ書けなくなってしまっていたのだ。

 不思議なものだ。承認されたいと思って行動するうちに、本当に書きたいことが書けなくなるとは。

 ぼくは、ツイッターによって承認され、ツイッターによって抑圧されていたのだ。

 そんなこんなで、「そろそろ潮時か」と思っていたところだった。

 

 

 そしてとうとう、ツイッターをやめるための「最後の藁」となるような出来事が起きた。

 そのきっかけは、ぼくが投稿した以下のツイートだ。

 

 

だれかの曲をアカペラカバーする際、後ろめたさを感じている人は少なくないと思う。しかしそんな心持ちでいるのは、やっぱり不健康だ。アカペラカバー文化が培ってきた「二次創作性」について、われわれはもっと自信を持っていいはずだ。後ろめたさを感じないためのロジックが必要だ。

 

 

 先日投稿した文章の原型となるようなツイートである。

 これに対して、下記のようなリプライがあった。

 

 「(二次創作という表現は)吐き気催すぐらい嫌い」

 「二度と使って欲しくない言葉」

 

 前半の「吐き気催す」はまあ良いとしよう。感想は色々とあるものだ。

 しかし「二度と使って欲しくない表現」という言葉は、本当に許せなかった。

 

 言論は自由だ。だからこそ人類の文化は、ここまで豊かになったのだ。

 アカペラに関する言論も、もっと自由でなければならない。

 そのためにぼくは、共感されないとわかっていながらも、さまざまな文化や、さまざまな文脈と接続して、アカペラを論じてみようと試みてきた。

 その試みの積み重ねこそが、アカペラという文化を豊かにすると信じてきたからだ。

 そして、その考えにたいする反対意見は受け入れるつもりだった。

 議論をたたかわせることによってこそ、文化に深みがもたらされるからだ。

 

 しかし上記の言葉を書き込んできた人物は「個人の意見表明に反論したり議論するつもりはない」などと、さも理解を示すような「フリ」を演じつつ、ぼくの反論や議論の機会を封じ込めたうえで、「吐き気催す」などという言葉を投げかけ、さらに「二度と使って欲しくない言葉」と、ぼくの表現を奪おうとしてきたのである。

 

 その人物の批判は当初、前述のぼくのツイート内の「われわれ」という言葉に対するものだった。要するに「一般化するな」という旨の反論である。ぼくは一般化のように見えた表現方法については誤解が合ったと謝罪した。にもかかわらずその人物は突如論点をすり替え、「二次創作」という言葉そのものへの不快感をあらわにしだした。繰りかえすようだが、不快感自体はよい。反論も受け付ける。しかしその人物は「議論するつもりはない」とハナから議論の機会を奪った上で、「吐き気催す」などと一方的かつ論点不明の批判をしてきたのだ。そして極めつけは「二度と使って欲しくない」という抑圧であった。

 

 何よりも問題なのは、その人物がアカペラを手段に長年奏者として活動してきた人物であったことだ。表現者として、基本的かつ根本的な認識が間違っていると批判せざるを得ない。人類が何千年もかけてようやく獲得した言論の自由を、いったいなんだと思っているのか。他人から言葉を奪う権利は、だれにもない。

 

 なにはともあれ、そのリプライはツイッターをやめる最大の契機となった。このように、他人から言葉を奪おうとする「ベテラン」がいるような場所では、「言論の自由」を感じながら活動をすることができない。ツイッター上で反論して「自由を勝ち取る」という選択肢もあったが、上記で示したとおり相手の論理展開がまったくもって抑圧的かつ支離滅裂だったので、議論は成り立たないと判断しやめることにした。そもそも「議論するつもりはない」という態度の人間と議論を試みることほど無意味なことはないからだ。

 

 心からアカペラやボイパを愛し、文化を豊かにするための言論をするためには、ツイッターを離れ、改めてこのサイトを拠点とする必要があった。人生は有限だ。ツイッターで心を乱されいる暇があるのなら、一冊でも多く本を読み、一文でも多く文章を書く。そして、そんな文章を必要だと思った人にだけ届けば、それでいい。この文章も、そんな考えに至ったからこそ書けている。

 

 なお当サイトは議論は歓迎である。ぜひメールフォームほかの方法でコンタクトいただければ幸いである。