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「二次創作」の概念は、アカペラカバーの「うしろめたさ」を乗り越える

 

 ここではアカペラにおけるカバー文化について、オタク文化における「二次創作」と重ね合わせて論じる。 

 

 アカペラ文化では、原曲を独自にアレンジし、カバーする行為がごく一般的に見られる。とりわけアマチュアにおいては、ライブやコンサートの演目のほとんどが、知名度のある曲のカバーである。そんな中、いわば「他人の褌で相撲を取っている」とも受け取られかねないステージづくりに、「うしろめたさ」を感じている人は少なくない。

 このようなアカペラのカバー文化にまつわる「うしろめたさ」を、「二次創作」という概念を導入することによって乗り越えられないか。これが本論で示したいテーマである。

 

 「二次創作」。これまで当サイトを運営するうえで中心としてきたキーワードであり、筆者自身の人生にとってもきわめてたいせつで、重要な概念だ。改めて考えを整理するためにも、この文章を書くことにした。

 

二次創作が生み出してきた価値

 

  いわゆるオタクにとって「最大のイベント」とされるコミックマーケット(通称「コミケ」)。個人や団体が、自費で制作した「同人誌」を販売し合う日本最大規模のイベントである。ここで販売される作品の中核を担うのが「二次創作」。アニメ・漫画といった「原作」のキャラクターや世界観を、独自に読み替えて作品にする表現方法だ。

 コミケは1975年の開始以来その規模を拡大し、2019年夏開催時の来場者は73万人、経済効果は150億円とも言われている。2020年1月にはAmazonも初出店。グローバルなイベントとして海外からも認知されているという。波及効果は経済面のみだけではない。数多くのプロ作家がここから育ち、活躍している。現在「ドラゴンボール」の公式続編漫画を執筆している作者は、過去に同作の二次創作をコミケで発表していたとされる。

 

 原作者側も、あるときから二次創作を内包するかのような作品作りをするようになった。たとえばアニメ『エヴァンゲリオン』(1995)は、二次創作を誘発させるような仕掛けを原作に施していることで有名だ。さらにテレビシリーズの最終話では、まるで二次創作を「逆輸入」するかのように、原作とは異なる性格の登場人物を登場させる演出を取り入れている。またアニメ『らき☆すた』(2007)ではコミケ会場そのものを描写。コミケ参加者の行動をパロディ化し、いわば「現実の二次創作」のような表現をしている。二次創作の想像力は、日本におけるコンテンツ(とりわけサブカルチャー)の一部を間違いなく豊かにしてきたのだ。

 それをまさに証明するかのような動きが、「公式側」からも出ている。『初音ミク』『艦隊これくしょん』『東方Project』『Fate/GrandOrder』といった作品は「創作ガイドライン」を提示しており、その範囲内での二次創作を認めている。背景にあるのは、「二次創作が公式側の認知を拡大してくれる」という期待であろう。

 

批判

 

 二次創作的な表現が見られるのは、アニメや漫画の同人誌だけではない。ゲーム実況、音楽カバー、コスプレなどでも散見され、その影響力を拡大し続けている。いずれにしても「原作と二次創作」は、いまや切っても切り離せない関係にあると言っても過言ではない。

 

 一方で、二次創作への批判は、あとを絶たない。昨年11月には、「はてな匿名ダイアリー」というウェブサイトへ「ファン活動としての二次創作を許容しなければならない空気感と文化を破壊したい」というタイトルの投稿があり、話題となった。原作にないストーリーを勝手に書くことへの嫌悪感を感じる人も少なくない。「著作権侵害にあたるのではないか」という議論についても決着はついていない。

 ちなみに以下は個人的な経験だが、少年期に『ドカベン』に熱中した筆者がインターネットでタイトルを検索したところ、大量の性的表現が目に飛び込んできて面食らったことがあった。嫌悪感を抱く感覚は理解できる。

 二次創作は日本におけるコンテンツ産業を支えている面はあるが、他方で原作者側や消費者との関係で消化しきれていない面もあり、未だ議論の余地が残る表現活動なのだ。

 

 では、意見のわかれる二次創作に、多くのひとが魅了され続けるのはなぜか。それは、原作にたいする愛情にほかならない。「宇宙戦艦ヤマト」の同人誌でコミケ出店の経験もある漫画家の田中圭一氏は、二次創作についてこう述べている。

 

 「大好きに尽きる。手塚先生の絵とかいいよね。素晴らしいよね。面白いよね。かわいいよねっていうのを描きたい」

「そこにはその絵が好きで、リスペクトが根っこにあるわけで、私もただ乗りしたいために絵を変えたわけではない」

 

拡大を続ける“同人誌”市場、「二次創作」への批判も…原作へのリスペクト・還元をどう考える?/ABEMA TIMES 2020.01.08

 

  原作にたいする愛情、そしてリスペクトの念が多くの人の共感を生み、二次創作は広がりを持っていったと筆者は考える。

 

原作を「読み替える」

 

 ここで議論はようやく「アカペラ」へと接続する。筆者は二次創作にまつわる上記の文脈を知ったとき、日本のアカペラにおける「カバー」(コピー)文化との類似性を感じた。

 日本のアカペラ文化はその発展過程において「カバー」を抜かして語ることはできない。原曲をアカペラアレンジし、人間の声のみで演じることへの驚きと感動によってファンを増やしてきた(この経緯については、当サイトで何度も論じてきたとおりである)。そしてこの文化は、「原作の世界観を、独自に読み替えて表現する」という意味において「二次創作」と言い換えることはできないだろうか。

 

 ここでひとつ留意しなければならない点がある。漫画やアニメであれば、登場人物のみを抽出して大幅に読み替え、異なる世界観に登場させたとしても「その作品だ」とアイデンティファイできる。つまり、作品の核となる部分を保持したまま、二次創作者のオリジナルな想像力を多分に盛り込むことができるわけだ。

 一方で音楽は、コード、メロディ、リズム、歌詞という要素がある程度揃っていることではじめて「その曲だ」と認識できる構造になっている。そのため、抽出して読み替えのできる範囲は「実は少ない」というのが筆者の考えだ。つまりオリジナリティを加えるためには、相当な努力が必要である。メロディ、リズム、歌詞を保持にしているにもかかわらず、「歌いやすいから」などとという理由でコードのみを変形するといったアレンジは、リスペクトのない駄作(駄アレンジ?)と言わざるをえない。つまり「意図を説明できないようなアレンジは、二次創作と言えない」という前提を付け加えておかなければならない。

 

 そのうえで、改めて「原曲への愛情とリスペクトを持って、アカペラへと読み替える表現」を「二次創作」と言い換えてみたい。

 

カバーは恥じるべきか?

 

 アカペラにおける「カバー」についても、二次創作と同様、これまで多くの議論がなされてきた。著作権の問題はもちろん、「原曲の劣化コピー」「他人の褌で相撲を取る」「カラオケ大会」など批判の言葉を上げればきりがない。この言葉に傷つき、カバーを歌うことに「うしろめたさ」を感じ、カバー文化を糾弾する側に回り、ついにアカペラ自体をやめてしまった人もいるはずだ。

 では本当にアカペラのカバー文化は恥じるべきなのか?筆者はそうは思わない。アカペラは、原曲からはまるで想像できないような表現を、独自のアレンジと高度な歌唱力によって生み出してきた歴史がある。それは日本のサブカルチャーが長年かけて培ってきた、二次創作的な想像力に通じると考える。

 

 原曲を愛し、さらにアカペラという表現方法を愛し、独自に読み替えて、歌う。これは止めることのできない欲望だ。そしてその欲望を抑圧せず、高度な技術で発揮していくことができれば、文化はさらに多様で豊かになると信じている。そして何度も述べているとおり、そこには原作者へのリスペクトをはじめとした正しい倫理観がなくてはならない。著作権という困難な議題にも、真摯な取り組みつづけなければならない(ちなみに出版作品と音楽作品では著作権に関する考え方がやや異なるらしいので、より注意が必要だ)。

 

 今回はアカペラの「カバー」を「二次創作」という考え方で読み解こうとした。ほかにも、アカペラ奏者が自信を持って活躍するために多くの視点がありうると思う。

 詳述は控えるが、筆者は「ただしく批評できる観客をもっと育てること」がより重要と考えている。「もっとオリジナル曲を生み出していくべき」といった意見もまっとうだろう。

 とにかく、たくさん存在しうる視点のひとつとして、この文章を書き上げた。誰かの「うしろめたさ」が解消することができるとするならば、それ以上にうれしいことはない。

 

当サイトを貫く「二次創作」の姿勢

 

 話は脱線するが、冒頭で述べたとおり当サイトは「二次創作」を重要な概念と位置づけている。わかりやすい例で述べれば、当サイトの「ハモネプの物語」という文章は、ハモネプというバラエティ番組の、いわば二次創作である。ハモネプをただ視聴しているだけでは、このようなストーリーが浮かび上がってくることはない。「ボイパがハモネプの物語の中心であった」というひとつの仮定のもと、独自に「読み替えた」文章なのだ。

 

 このような二次創作的な態度は、やはり反発があるだろう。実際に「ハモネプの物語」については「そうではなかった」という意見もいただいた。とはいえ、たとえ身勝手な読み替えであっても、「あのブームは一体なんだったのか」と整理をする人物がいなければ、文化を前に進めていくことはできないと筆者は考える。だからこそ当サイトは存在している。

 

 そしてこの発信にたいする反論や、建設的な議論の中にこそ、多様な価値観が存在しうると信じている。


2021.8.11追記

ヒューマンビートボックス・ボイスパーカッションの表現法を研究する河本洋一教授(札幌国際大学短期大学部)が、この文章に応答してくださりました。

 

ア・カペラの「うしろめたさ」を忌野清志郎がぶっ飛ばすぜぃ-【復活】”オヤジ2号”の『ほぼ週イチ☆ブログ』

 

当サイトでフォローしきれなかった、音楽における著作権の考え方について、完結かつわかりやすく紹介されています。

そのうえでアカペラにおける「うしろめたさ」について独自の見解が述べられています。必読です。

河本さん、ありがとうございました。


参考

拡大を続ける“同人誌”市場、「二次創作」への批判も…原作へのリスペクト・還元をどう考える?/ABEMA TIMES

「二次創作が嫌いだ」匿名ブログきっかけに議論に 漫画家・作家も相次いで言及/JCASTニュース

・動物化するポストモダン/東浩紀(講談社現代新書)

・オタク学入門/岡田斗司夫(新潮文庫)

・「おたく」の精神史 1980年代論/大塚英夫(講談社現代新書)

・10年代文化論/さやわか(星海社新書)