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「ゲンロン批評再生塾」に通う件

 この6月から1年間、「ゲンロン批評再生塾」というスクールに通うことにした。

 このスクールは文字通り批評について学ぶ場である。主任講師の佐々木敦さんをはじめ、各ジャンルの批評家や、作家、アーティストらが (それも第一線で活躍する方々)が登壇。生徒は提示された課題に沿って文章を書き、講師らから指導を受ける中で、批評の書き方やら読み方やら態度やら厳しさやらその他諸々を学んでいく。

 

 ウェブサイト:ゲンロン佐々木敦批評再生塾(http://school.genron.co.jp/critics/

 

 批評とはなにかと聞かれると困る。文字面からは「作品について点数をつけたり、批判したりする仕事」と想像しがちだが、それだけでないようだ。

 文学や映画や音楽などの作品を、これまでとはまったく異なる視点でとらえ、ことばにしていく試み。あるいはときに、この世界や人間の本質にも迫り、読者に対して新しい価値観を提供する仕事。

 これが「批評」にたいする私のいまのところの理解である。このスクールを主催する「株式会社ゲンロン」の社長で、思想家の東浩紀さんは、2018年5月11日のツイートでこのように述べている。

 この考えを体現するように東さんは昨年、「ゲンロン0 観光客の哲学」という本を世に出した。1年前、私はたまたまこの作品に出会い、一気に読んで、「こんなにも面白いジャンルの文章がこの世に存在したのか」と度肝を抜かれたり腰を抜かしたり目から鱗を落としたりした。そして興奮しながらツイッターで以下のように投稿した。

  これが東さん本人にリツイートされたのである。私は有頂天になってしまった。「このすばらしい作品を書いた人に、おれなんぞのツイートが目に留まり、RTされてしまった」。そして私はすぐに、かれが経営するゲンロン社のファンになってしまった(あとから振り返れば東さんは「ゲンロン」に言及しているツイートを頻繁にRTしているので、術中にはまった感はけっこうある)。

 

 それから私は、同社が発行している「ゲンロン」という雑誌の既刊を買い集めた。だが、読んでも読んでも、何が書いてあるのか難しくてさっぱりわからないのである。そのほかにも批評や思想にかんする書籍を読み始めたが、おなじくさっぱりわからない。日本語であることはわかるのだが、文章が読めないのだ。

 なんとかわかりたいと思い、私はつぎに、同社が開催するトークイベントの動画を見るようになる。しゃべり言葉で説明されると、文章よりもだいぶわかりやすい。その後私はふたたび、批評ジャンルの文を読む。なるほどちょっとわかってきた気がしてきた(このあたりで初心者でも読めてしまう「観光客の哲学」の凄まじさを理解する)。いつしか「ゲンロン友の会」という同社のファンクラブ的なサービスに加入するようになり、毎月送られてくるメールマガジンのクオリティの高さにおののいたりした。

 この1年間は、ひたすら批評というジャンルに夢中になり、その深みに憧れをいだく日々だった。この「ボイパを論考する」というサイトを立ち上げたのは、その影響によるところも、じつはとても大きい。

 

 そんなある日、いつものようにYoutubeで「東浩紀」などと検索していると、「批評再生塾最終課題」という動画が現れた。このスクールで1年間学んだ生徒が、2万字の批評文を発表し、その意図を語ったり講師陣から指摘を受けたりする動画である。興味を抱き、彼らの発表や批評文を見た。批評初心者の私でも、そのレベルの高さだけはわかった。調べると、登壇者のほとんどが、私と同世代なのである。これには驚いた。

 どこで差がついたのか…慢心、環境の違い――。

 とにかく、この同世代の連中が、私より何年も早く批評の面白さに出会っていることを、心底から羨ましく思ったわけである。

 

 

 さて、ここで唐突に話が過去へと遡る。

 私は長いあいだ、作家・筒井康隆さんのファンである。大学生の頃には「文学部唯野教授」という作品に夢中になった。主人公(唯野教授)の猛烈な饒舌にのせ、文芸批評の歴史をわかりやすくたどりつつ、また大学組織がいかに世間知らずかを描くことで文芸批評の悲惨な状況をメタ的に批評している傑作である。いま思えばこのときに私は、批評にもっと興味を持つべきだった。しかし当時の私は未熟そのもので、たんに唯野教授のキャラクターに惹かれて面白がっていただけだった(そういう低レベルの読者でも楽しめるようにこの作品をつくった筒井さんはやはり神であるわけだが)。 

 

 その後も私は筒井さんのファンであり続けた。2014年には青山ブックセンターで開催されたあるトークイベントに参加した(当時の筒井さんの日記はこれ→http://shokenro.jp/00001124)。批評家・佐々木敦さんとの対談イベントだ。

 佐々木さんは筒井作品の一部などに対し「パラフィクション」という概念を提唱(まさに新たな価値観を提供)し、対談は白熱。文学史的な現場にいられたこともさることながら、のちに筒井さんがこの対談に応じる形で「メタパラの七・五人」という作品を世に出すまでの一連の流れには、心底興奮した。このときも批評にハマるチャンスだったのだが、またしても逃してしまったわけである。「読者であるあなたにお任せすることにしよう」という筒井先生の熱いメッセージを見たにも関わらず。おれはアホか。

 ともかく、まさかそのときの登壇者が主任講師を務めるスクールに、のちに通うことになるとは、思いもよらなかった。たぶん遅かれ早かれ、批評というジャンルに夢中になる宿命だったのだろうとは思う。

 

 むかしから文章は好きだった。大学の頃は、元新聞社デスクが教授が開く自主ゼミに入り、文章作法を学んだ。そこでは教授が指定する本(小説から思想書まで多ジャンルに及ぶ)を読み、自分の経験と照らし合わせて「言いたいこと」を1000字で書けという課題が毎週出された(今思えば批評的なアプローチのような気もするがもちろん当時はそんな認識はなかった)。

 小難しい本を読むだけでもしんどいのに、思いの丈をたった1000文字にまとめるのは骨が折れた。苦労して書いても出来が悪いと教授にこき下ろされたりするのである。アカペラサークルやバイトや就活との同時並行は厳しいものがあったが、毎回の緊張感のおかげで文章力は上がったし、いまの地域紙記者の仕事にも生きていると思っている。

 そして、この経験があるからこそ、わかるのである。「ゲンロン批評再生塾」が、いかに生徒の地力を伸ばすシステムであるのかを。

 このスクールでは、2週間に一度課題が提示され、2000字~4000字で文章を書く。第一線で活躍する批評家に読まれることはもちろん、ときに講師その人をテーマとした批評文を書くことが求められるので、緊張感はあの自主ゼミの比ではないだろう。優秀作を書いた人は登壇して概要を発表するのだが、その模様はニコニコ生放送で放送され匿名の主張者にあれこれと言われるのである。必死で本を読んで必死に文章を描くことが強いられるシステムなのだ。もちろん、優秀作として選ばれなかったときのつらい落胆もあろう。そんな状況でたたかうわけだから、力が伸びるに決まっている。

 

 

 さてこのように書くと、これから私がこの厳しいたたかいに挑戦していく宣言のように見えるわけだが、じつは違う。今回は「聴講生」といって、文章を提出できないコースを申し込んだ。講義には参加できるのだが、批評文を提出して他の正規受講生とたたかうことができないのである。いま読者の脳内に現れた「ヽ(・ω・)/ズコー」のAAがおれにはみえる。 

 私には愛する妻と幼い娘がおり、彼女らとキャッキャウフフする時間は、我が人生のおかしがたい絶対領域なのだ。大学での経験から、私には推測できるのである、正規受講生になることは人生の一期間をめちゃくちゃにしまうことを。正規受講生はスクール後の飲み会参加不可避であることも想像に容易い。だから聴講生を選んだ。聴講生よりも正規受講生のほうが圧倒的に実力が伸びるであろうこともよくわかっているわけだが、天秤にかけた結果だ。

 なんだか逃げの言い訳めいてきた。これからさき、死ぬ気でたたかっている正規受講生に対する、説明不能なうしろめたさに襲われるような気もしている。だが主催者が聴講生制度を設定している以上は、堂々としていればよいのである。できるかなあ。

 

 とにかく、まずはこの1年間をつかって、自分より先に批評の魅力を知ってしまった人と同じくらい批評を読めるようになりたいという気持ちが、とても大きい。批評ファン歴の長い読者に追いつくのは困難を極めるのだろうが、方法はいくつかあると思っている。そのひとつは、お金をかけることだ。

 お金をかけると、絶対に無駄にしたくないという気持ちが働く。だからこのスクールに投資した。講師の登壇前にはその人の作品を読んでいこうという気持ちになるし、その予習によって、講義を受けた時の理解も進むはずだ。しゃべり言葉と文章を交互にインプットすることで理解が進むのは、この1年で知ったことだ(前述の通り、ゲンロンのトークイベント動画と書籍を読むことを繰り返してきたことでわかった)。スクールで講師から繰り出される言葉を、すこしでも理解したい。その意識づけができるだけでも、受講料は安いはずである。

 

 東さんはいつぞや、このスクールによって「批評の読者を育てたい」といった趣旨の話をしていた。「再生塾」という名にも、その意味が込められているようである。その狙いにどっぷりと浸かり、学ぶべきなにかを拾い集めて、このサイトをより良いものにしていきたいと思っている。

 

 私の出身のまちに、西田幾多郎という偉大な哲学科がいる。かれの思想は脈々と受け継がれ、現在の批評の文章にも頻出していることに、さいきん気が付いた。小学生のころに学校で「西田幾多郎先生を讃える歌」という曲を何度も歌わされてアホかと思っていたのだが、今なら全力で歌えそうである。