媒介者としてのボイパプレイヤー

 ボイパプレイヤーは、すぐれた媒介者になりうる。私はこれからこの結論にむかって、数人のボイパプレイヤーを登場させながら文章を進めていきたいと思っている。(※1)

 「媒介者」ということばがイメージしづらければ「誰かと誰かをとりもつ人」「なかだちをする人」などと言い換えてもよい。とにかく、この分断された社会のなかで、人と人とをつなげる優秀な資質を持っているのがボイパプレイヤーだと訴えたいのがこの論考の目的だ。

 

 前提として、なぜ私が「ボイパプレイヤー=媒介者」という説を語ろうとしているのかについて説明しておこう。出発点にあるのは、「日本社会がこれ以上ばらばらになっていくのはいやだ」という素朴な思いだ。

 周知のとおり、70年代以降の日本は社会をまとめる「大きな物語」を失ったといわれている。各々が興味の赴くまま趣味に没頭し、都市と地方は断絶し、貧富の差は拡大し続け、イデオロギーの対立は激しくなるばかりだ。「共通の話題」を提供してきたマスメディアの信頼は失墜し、人と人をつなげる役割を期待されたSNSは細分化を助長するばかりかヘイトを煽るものとしても機能している。

 

 人々はどこまでも、ばらばらになり続けている。それが、2018年現在の日本の状況である。

 社会を見渡してみれば「みんなそれぞれ、なんとなく面白いことをやっていそうだ」ということはわかる。しかしそれらを横断するのは難しい。こんな時代状況の中において私は、ボイパプレイヤーに「人と人とをつなぐ媒介者」としての役割を見たい、と考えているのである。

 

「まじめ」と「ふまじめ」

 

 思想家の東浩紀は「ゲンロン0 観光客の哲学」(※2)という著書の中で、「まじめ」「ふまじめ」という、ふたつの物事の捉え方について語っている。

 人々を恐怖に貶めるテロリズムは、ほんらい「まじめ」に捉えるべき現象である。その一方で、テロリストの動機を辿るとあまりに軽薄で「ふまじめ」に見えたりする。

 あるいはグローバル化という現象についても、複雑で深刻な問題をはらんでいることから一見「まじめ」に検討すべきに思えるが、一方でグローバル化の象徴たる観光は、どこまでも無責任で「ふまじめ」な行為だ。

 つまり現代は、「まじめ」と「ふまじめ」に明確に分けて論じられない問題に囲まれた時代なのだという。この問題群を語るためには、本質的に「まじめ」を強要される政治という方法のみでは限界がある。両者の境界をいちど棚上げすることが必要だと、東は語っている。

 「観光客の哲学」ではその境界について思考できる方法のひとつに文学を提示しながら「文学的思考の政治思想への再導入」を訴えている。そのうえで、政治と文学どちらにもおらず、またどちらにもいる存在、つまり「まじめ」「ふまじめ」をふわふわと行き来できる存在を「観光客」と名付けたうえで、議論を展開していく。

 

 私はいま、この本で紹介される「観光客」的な生き方の実践に「ボイパ」が使えるのではないかと考えている。

 

 なぜそう思うのか。ボイパは「まじめ」と「ふまじめ」どちらにも分類できないものだと考えられるからだ。

 ボイパ演奏において、音色描写やテンポキープやグルーヴを追求していく行為は、どこまでも「まじめ」な営みに見える。一方で、「打楽器の真似事である」という発祥に思いを致せば、なんとも「ふまじめ」にも見えるのだ。

 東はこの本のなかで、かつて著した「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」 (※3)の内容に触れつつ、オタクによる「二次創作」を、「原作に無責任で『ふまじめ』な行為」だと語る。私はこの二次創作とボイパにも、類似性があると考えている。

 

 打楽器(=原作)の模倣から出発したはずボイパ。しかしいつのまにか、先行するボイパプレイヤーの演奏を模倣するなかでテクニックが進化しているような状態になっている。

 ボイパプレイヤーたちはまるで「原作」たる打楽器に対しての興味を、まったく無くしてしまったかのように振舞っている。この様子はまさにシミュラークル(オリジナルなきコピー)であり、とてもポストモダン的で、二次創作の営みに近いように感じるのだ(※4)

 とにかく、「まじめ」で「ふまじめ」なボイパという営みは、あらゆる境界を横断したりつなげたりする性質を、本質的に持っているのではないか。そんな予感が、本論を書き始めたきっかけである。

 

3人のボイパプレイヤー

 

 この文章で私は、おもに3人のボイパプレイヤーを紹介していく。一人目は奥村政佳である。

 「おっくん」の愛称で知られるかれの功績は、マスメディアに登場しボイパの存在を広く知らしめたことだけではない。今から約20年前の大学生当時、まだ珍しかったボイパの技術をいち早く習得し、代表を務めていた筑波大学のアカペラサークルを拠点に、一時は大学を超えて10以上のアカペラグループを兼任した。

 そして複数の大学サークルを横断して築いた人脈を生かしながら、日本で最も有名なアカペライベントの立ち上げに貢献している。

 そんなかれの「媒介者」的な生き方は、のちの被災地復興支援や、保育士資格を生かした仕事など様々な側面からも読み取ることができる。

 

 二人目に登場するのはHIKAKINだ。奥村の演奏に感銘を受けたことを契機にヒューマンビートボックスを始めたというかれは、Youtubeにアップした「Super Mario Beatbox」(※5)という作品により、一晩にして世界に注目されるボイパプレイヤーとなった。

 HIKAKINさんもまた様々なジャンルの人との積極的にコラボした映像作品を発表しており、またその後のユーチューバーとしての活動においても、商品紹介やゲーム実況など「媒介者」としての立ち振る舞いを続けていることに、私は注目したいと思っている。

 

 そして三人目は、筆者であるである。この文章を読んでいるすべての読者がたったいまズッコケながら思ったとおり、ボイパプレイヤーの最重要人物2人とこの私を並べて論じるのは明らかな暴挙である(※6)。

 この暴挙に対し、すこしだけ説得力のありそうな理由を話しておこう。

 私は奥村やHIKAKIN、そのほか様々なボイパプレイヤーの生き方について、心の底から真剣に考えてきたと自負している。そしてその営みをとおして、かれらから「媒介者的な生き方」を学んできた。さらにそんな生き方をなんとか実践できないかと、模索しつづけてきた。

 そんな私なりの試行錯誤を書くことで、このサイトの読者と、奥村やHIKAKINらボイパプレイヤーとのあいだに「橋」をかけられないかと思っているのだ。あるいは、様々なボイパプレイヤーをひとつの論考内に登場させ、かれらの生き方から共通項を見いだし、一定の論理性を持たせながらつなげることができるのは、「媒介者」としての素養をかれらから学んだ私だからこそ可能なのだ、というメッセージも込めている。つまりこの論考サイトの存在こそ、「ボイパプレイヤー=すぐれた媒介者」としての自分を表現するための、ひとつの実践だと考えているのである。

 

 話がややこしくなってきた。とにかく、三人目に登場するのは私である。

 私は先日、あるコミュニティFMの番組に出演した。そのときの経験から、人と人とをつなげるツールとしてのコミュニティFMと、ボイパとの不思議な親和性を感じた。この素朴な感覚から見出した「ボイパ=媒介者」論を展開させていきたい。

 

 さてこの論考内で私は、「災害」についてたびたび言及することになる。折しもここ数ヶ月のあいだで、西日本に大雨が襲い、近年稀に見る大型台風が列島を縦横断し、北海道で最大震度7の地震が起きた。災害が立て続けに起こっているこの年に、「ボイパプレイヤーだからこそできること」についても残しておきたいと考えた。

 

 この文章によって、「ボイパで何かを成し遂げたい」と思う人に対し、なにかしらヒントのようなものを与えることができれば嬉しく思う。あるいはボイパのことをよく知らなかった読者に対し、興味を持つきっかけになるのであれば、それもまた幸いなことである。

 ※1…本論における「ボイパ」の定義を、「非言語音による直接的模倣音」かつ「音楽的表現の意図で使われる演奏形態」とする。コンテンポラリーアカペラ文化の文脈で語られるボイス(ヴォーカル)パーカッション、ヒップホップ文化の文脈で語られるヒューマンビートボックスを含む概念として定義する(詳細は「はじめに」を参照)。

※2…ゲンロン、2017年4月

※3…講談社現代新書、2001年11月

※4…ヒューマンビートボックスとシミュラークルの関連については、ヒューマンビートボクサーのすらぷるためがたびたび言及している。下記は2018年6月のすらぷるためによるツイート。2018年10月8日閲覧。

 

※5…Youtube内HIKAKINチャンネル「Super Mario Beatbox」

※6…暴挙ではあるが、このサイトの運営主も編集長も筆者も私自身であるわけだから、だれにも文句は言えまいという思いはもちろんある。



参考

・東浩紀著「ゲンロン0 観光客の哲学」(株式会社ゲンロン)

・東浩紀著「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」 (講談社現代新書)

・BLOGOS.―目指すは中高生の身近なヒーロー YouTuber HIKAKINさん( http://blogos.com/article/103034/?p=1) 2018年10月6日閲覧

・RAG FAIR著「RAG FAIR“RAG & PIECE”」(ソニーマガジンズ)