ボイパをどう伝承するか

 この文章ではボイパの伝承について考える。キーワードは「伝統音楽」「唱歌」「暗黙知」「師弟関係」「コピー(模倣)」だ。どれも、私の人生と密接に関わっている。

 

 私は小学生のころに伝統音楽(お囃子)と触れた。そこで人生初の師弟関係を結び、唱歌によって伝統を受け継いだ。

 その経験がいかに尊いものであったかを、静岡大学在学時代に知ることになる。きっかけとなったのは、同大学情報学部の雨宮正彦教授(現在は退官し名誉教授)である。

 雨宮教授は当時、読売新聞元記者の経験を生かした「文章作法ゼミ」を開いていた。そのゼミは、自身の研究対象である「伝統工芸における師弟関係の構築」をいわば実践するかたちで運営された。私は雨宮教授から、文章作法とともに、師弟関係の重要性を学んだ。そして子どもの頃に体験した、お囃子における師弟関係の尊さも再認識したわけだ(本論では、雨宮教授が執筆した書籍も引用している)。

 

 この文章は、論文というより、エッセーのような文体である。自分の人生と結びついて離れない議論だからこそ、こうした文体であることによって、より説得力を持たせられると考えた。

 現在、世界はコロナ禍の真っ只中である。オンラインでのつながりがこれまで以上に重要視されるなか、その傾向をやんわりと批判するものにもなっている。ぜひ気軽に読んでもらいたい。

 

 ※本論は、ヒューマンビートボックス研究を行う、札幌国際大学短期大学部・河本洋一教授の仕事に大きな影響をうけたうえで展開している。河本教授は2009年に「指導ツール及び表現素材としてのオノマトペの可能性に関する基礎研究」で、非言語音を言語化するいわゆる「オノマトペ」が日本語歌唱指導で重要と指摘した。さらにその議論を下敷きにしながら、ビートボックスの可能性について研究の裾野を広げている。

 

1.伝統音楽の視点からボイパを考える

 

 私の音楽の出発点は、祭りのお囃子である。

 わが故郷・石川県かほく市大崎のお囃子は、縦笛と太鼓からなるシンプルな構成だ。参加資格が与えられるのは、小学3年生から中学1年生までの男児のみ。私はその年齢のあいだ毎年、秋季例祭で縦笛を演奏した。

 この地域における祭りの見どころは、伝統的な「加賀獅子」である。胴体部分の大きな「蚊帳」が最大の特徴で、10人ほどの大人によって演じられる獅子の姿は、圧巻の一言だ。

 この大きな獅子に、青竜刀を模したような木刀で立ち向かうのが「棒振り」だ。馬の毛で作られたかつら(しゃんが)をかぶった少年が、古武術から発展した剣術で獅子退治を行う。それを文字通り「囃し立てる」のが、私たちお囃子の仕事である。

 お囃子連中は、花笠をかぶり、明るい着物を身にまとう(女装である)。アップテンポな和太鼓にのせる縦笛の音色は甲高く、力強い。その鮮やかさと激しさはまさに、加賀百万石の文化の華やかさを垣間見せるようだ(なお「加賀獅子」は1965年に、金沢市の無形民俗文化財に認定されている)。下の映像はその様子である。

 秋季例祭では、故郷のまちをくまなく巡り、各家庭から祝儀をもらいながら、そのお礼として、加賀獅子と棒振りの対決を披露する。縦笛は通常、複数人によって演奏されるが、親族等から名指しで祝儀が送られるときには「ソロ演奏」を披露する。

 とくに自宅のまえで、親が見守るなかひとりで笛を鳴らすのは緊張する。同時に、なんともいえない誇り高い気持ちになるものであった。加賀獅子は14世紀には原点が存在していたと推測されるが、まさに数百年のあいだ受け継がれてきた「伝統」を背負っているかような感覚を覚えたりもした。

 

 さて、冒頭でも書いたとおり私の地域では、お囃子の参加資格が与えられるのは中学1年生までである。私は参加資格を失った翌年(2001年)にハモネプと出会い、ボイスパーカッションを習得した。そのため、個人的な感覚としては、「お囃子」と「ボイパ」は音楽経験という意味で連続している。

 この文章は、いまあらためて、「お囃子」と「ボイパ」の経験を結びつけようと試みるものだ。お囃子などの伝統音楽でみられる「唱歌」や「師弟関係」といったキーワードが、ボイパでどのように使われているのかについて検討しながら、「ボイパの伝承のありかた」について、ひとつの提案をしたいと考えている。

 

 

2.伝統音楽の基本は「唱歌」と「師弟関係」

 

 

 「音楽論」(2016、武蔵野美術大学出版局、白石美幸編著、横井雅子著、宮澤淳一著)では、世界の伝統音楽について「マンツーマンでの口頭伝承によって教えられてきた」という紹介がなされている(※1)

 世界には、五線譜で記録不可能な楽曲はたくさんある。たとえば半音より狭い音程や、拍節感のないリズムなどだ。その大半は再現方法(歌いかたや楽器の弾きかた)とセットで口頭伝承されてきた。そして口頭伝承の際、記憶に残すために伝統的に活用されてきたのが「唱歌」という方法であったという。唱歌とは、楽器の音を擬音的にとらえるものであり、「オノマトペ」の概念に近い。

 

 私が経験したお囃子でも、この「唱歌(=オノマトペ)」は使われていた。縦笛は6つの穴があけられた竹製で、両手の人差し指、中指、薬指の動きによって奏でる。演奏曲は30秒にも満たないものが5つ。レパートリーとしては少ないが、前述のとおりアップテンポで激しめなメロディであるため、小学生の習得はなかなか難しい。そこで活用されたのが唱歌だ。

 

 「ちぇーれっこれっこ、おほれほ、よいよい」

 

 メロディをあらわすこの唱歌は、師匠の声とともにいまも鮮明に記憶に蘇る。師匠の唱歌が「脳内再生」できるようになる状況をまず作り、その後に指の動きを覚えていった。あれから20年近くの時を経たが、いまなお苦もなく演奏が可能だ。まさに「記憶の補助装置としての唱歌」が機能している。

 

 唱歌(=オノマトペ)は伝統音楽の継承において大切な要素だ。しかしあくまで補助装置にすぎない。その前段階として決定的に重要なのが、師弟関係の構築だと考えている。つまり、「師匠の唱歌が脳内再生できる状態」をつくりあげることだ。

 

 私の縦笛の師匠は、指の動きを間違えるたびに指や手や頭をはたいてきた。自宅で練習してこなかったことを見破られ、叱られたこともしばしばあった。しかし練習後はいつも優しくねぎらってくれた。

 お囃子の練習は晩夏の夜、地域の公民館で行われた。徐々に秋の涼しさを感じられ、虫の音も聴こえるようになっていく。本番が近づく高揚感と、「非日常」の終わりが近づいてくることの物悲しさ。その雰囲気と師匠の笑顔は、いまでも重なって思い出される。

 私は師匠を尊敬していた。だからこそ、あの難易度の高いお囃子を覚えることができたのだ。

 

 師弟関係は、音楽だけでなくあらゆる伝統技術でみられるものだ。下記ではさらにこの関係について議論を深めながら、ボイパの伝承についてひとつの提案をしたいと思っている。

 

 

(補論)ボイパは唱歌から派生した

 

 

 その前に、ボイパと唱歌の関係について、ひとつだけ補足を加えておきたいと思う。この補論は、のちに結論へとつながる。

 

 そもそも「唱歌」とは雅楽で用いられる言葉である。「音楽論」によれば、三味線では「口三味線」、太鼓であれば「口太鼓」、韓国の箏であるカヤグムや太鼓の杖鼓では「口音」、インドのタブラ・バーヤーンでは「ボール」など、さまざまな国・文化で唱歌に類するものがあったという(※2)

 

 このうち「ボール」(bol)は南インドでは「ショルカットゥ/ソルカットゥ」(solkattu)とも呼ばれ、同書によると「それ自体で成立する一つの表現の形と見なされ、『ボイス・パーカッション』と称してボールだけ集めたCDが売られ」ているという(※3)。なお「ショルカットゥ」の発展的な表現としては「コナッコル/コナコル」(Konnakol)が有名だ(下記動画)。

 コナッコルは現在流行しているボイスパーカッションやヒューマンビートボックスほどの、直接的模倣性はない(要するに、「まるで本物の楽器と聴き間違うようなリアリティ」はない)。ただ、リズムの巧みさという点においてはボイパに勝るとも劣らないクオリティがある。

 「ボイパはそもそも唱歌(=オノマトペ)から発展してきた」という可能性について、踏まえておかなければならない。

 

 

3.暗黙知と師弟関係

 

 

 話を戻そう。師弟関係は、伝統音楽のみならず、あらゆる技術伝承になくてはならない。これについて詳しいのが「伝統工芸のわざの伝承」(2007、酒井書店、林部敬吉、雨宮正彦共著)である。同書ではマイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知」という概念をふまえつつ、経営学者・野中郁次郎による議論を経て、師弟関係の重要性を指摘している。

 詳細はぜひ書籍をあたってみてほしいのだが、下記で私の解釈を加えながら、概略を説明する(※4)

 

 まず暗黙知とは、勘や直感のように個人的洞察と経験に基づく知識であり、言葉や図で表現できる「形式知」と区別される。わかりやすいのは自転車の乗り方だ。自転車の乗り方を文章や言葉で説明されても、すぐに乗れる人はほとんどいない。多くの場合は、練習を重ねながら、徐々に勘を身につけていく。

 自転車程度の技術であれば、あるいは独学でも習得が可能であろう。同書が対象としているのは「より高度な暗黙知」、つまり伝統工芸における「熟練のわざ」だ。

 では伝統工芸のような高度な暗黙知はどのように伝承されるか。野中によると暗黙知から暗黙知を生み出すには、教える側と教えられる側が「相互に経験を共有化、共同化する必要がある」という。同書はこのプロセスを、師弟関係における技術伝承と重ねながら論じている。

 

 ポイントのひとつが「わざことば」という概念だ。暗黙知はそもそも、その定義から言語化が不可能だが、伝統工芸においてはその一端を、独特の言い回し(=わざことば)によって表現することが多いという。

 たとえば漆器細工では「錆が笑う」という言い回しがある。漆塗りの下地の工程で、漆が生乾きのままヘラを入れてしまい、滑らかに塗装できないことを比喩して使う。このように「わざことば」として残すことで、伝統工芸における「要の部分」を伝承していくのだ。

 「わざことば」は、あくまで「記憶の補助装置」として位置づけられる(その意味で、音楽伝承における「唱歌」と通じる部分がある)。あくまで重要なのは「師弟関係」であり、師弟間に育まれる「信頼と愛情によって結ばれた絆」であるという。

 

 

4.師弟関係の「絆」

 

 

 ひょっとすると読者の中には、この「絆」ということばがもつ抽象的で神秘的な響きに、戸惑うひともいるかもしれない。しかし話としては、あくまで具体的で現実的だ。

 

 伝統工芸における「熟練のわざ」は高度な暗黙知である。「わざことば」だけではとうてい足りないほどの膨大な情報を記憶し、身につけていく必要がある。そこでは「師匠の一挙手一投足を凝視し、師匠のわざを懸命につかみ取る努力」が不可欠だ(※5)。そして何より、師匠に対する尊敬の念や、「絆」と表現するしかない結びつきが前提になければならない

 同書では、全国各地の伝統工芸の担い手の「生の声」が紹介されている。それを読むごとに、この議論はますます説得力を帯びてくる。たとえば、人間国宝の陶芸家・原清による「(師匠に)『死ね』と言われたら死のうとさえ思った」という言葉には異様な迫力がある(※6)

 

 人間国宝のエピソードの直後に自分の経験を書くのは気後れするが、私もまた、まちがいなく師匠への尊敬の念や絆を前提として、伝統を受け継いだ経験を持っている。

 しかし現代では、こうした師弟関係をつくることは難しくなっている。読者も感覚的に共感できるだろう。現在、師弟関係そのものが疑問視され(しばしば「パワハラ」と同時に議論される)、平等な教育機会が最重要視される学校現場においては、マニュアル化が重視される。

 

 さらにインターネットの出現によって、その傾向にはさらに拍車がかかっている。動画記録・配信技術が登場したことにより、それまで「暗黙知」だった部分の多くが「形式知化」されてきているのだ。この状況については、それこそボイパを例に取るのがわかりやすいのかもしれない。

 

 いま、ボイパを動画で学ぶ人は増加している。YouTubeには無数の「ボイパ講座」「ビートボックス講座」がアップロードされている。そこには情愛や尊敬や絆といった感情が入り込む余地はない。師匠の選び方の指標は、「検索の上位表示」と「わかりやすさ」だけだ。伝承方法はマンツーマンではなく、1対多数である。そしてだからこそ、ボイパ人口は増加し続けている。

 

 ボイパ人口増加という意味では、歓迎すべき状況なのかもしれない。しかしはたして、無批判に受け入れてよいものなのだろうか。

 私はいま、「それでも形式知化できない暗黙知」があるはずだと考えている。つまり、YouTubeではけっして伝えられない、ボイパにおける「熟練のわざ」は存在する、と。そしてその「熟練のわざ」こそを、師弟関係によって伝承していくべきであると。 

 ヒントを与えてくれるのは、日本におけるボイスパーカッションのパイオニア・KAZZの取り組みだ。

 

 

5.YouTubeでは伝えられないもの

 

 

 日本においていち早くボイパを習得し、30年間にわたり第一線として活躍するKAZZは、「ボイパ道場」と呼ばれるレッスンを続けている。そこには、これまで語ってきた「師弟関係」としか表しようのない関係性が生まれている。

 本サイトが行ったインタビューでKAZZは、現在のYouTube環境について下記のように語っている。

 

――やっぱりYouTubeが登場してから大きく変化しました。もちろん、すごく良いことだと思っています。でもひとつだけ言いたい。最近の若い子はみんな揃って「YouTubeの音」やねん(笑)!音の出し方がみんな一緒だし、ノリも一緒。たぶんおなじ動画を見ながら完コピしてるんやろなってのがわかる。

 

 このことばから、私たちはふたつのポイントを得ることができる。

 

 ひとつめは、YouTubeにおける検索の限界である。ボイパを学ぶためのあらゆる情報はYouTubeに存在する。しかしGoogleの検索アルゴリズムで上位に表示されるのは情報のごく一部であり、多くの人がおなじ動画から学ぶため、技術が画一化される。KAZZが表現するところの「YouTubeの音」だ。「ボイパ道場」では、そこから脱する方法を伝えている。

 

 もうひとつは、やはりボイパにおいても「動画でも形式知化できない暗黙知の部分」つまり「熟練のわざ」が存在するという示唆だ。

 KAZZは、まさに師弟関係の構築によってそれを教えている。

 

 ――(道場では)具体的な音の出し方は、あまり教えていません。そもそも一人ひとり口の形も声の高さも身体の大きさもが違うので、万人に通じる答えがありません。それよりも「良い音にするための考え方」「イメージの持ち方」に力点を置いています。学校のように答えを教えてもらう場所ではない。だからボイパ道場では「先生/生徒」ではなく「師匠/弟子」と呼びあっています。

 

 ボイパ道場では「良い音にするための考え方」「イメージの持ち方」を教えている。KAZZ本人が認める通り、それらはけっして具体的ではない。まさに暗黙知だからだ。

 KAZZは「暗黙知を伝えることの限界」をしっかりと認識している。すべてを言葉で伝えられるとは考えていない。だからこそ、師弟関係の構築に乗り出したのだ。 下記の文章を読んでほしい。弟子にたいする師匠の問いかけと、師匠に答えようとする弟子の努力の構図は、まさに「師弟関係の絆」そのものである。

 

――道場では明確な答えは出しません。(中略)大切なのはどんな演奏をしたいのかという「ゴール」を考えることだと思います。そこが明確であれば、もっと個性が出していけます。道場では、弟子にたいして「ほんまに理想の音が出せとんのか?」と問いかけています。すると、つぎに会ったときに音やノリが変わっているのがわかる。たとえばハイハットの使い方を少し変えるだけで、ボイパはがらっと変わるんです。そこに自分で気づかせてあげるための道場なんです。

 

 

6.「ただしいコピーの方法」

 

 

 KAZZの築いている「師弟関係」と、日本の伝統音楽が築いてきた「師弟関係」は、じつは毛色がやや異なっている。議論を進める前に、その違いについて整理しておかなければならない。

 日本の伝統音楽においてなぜ師弟関係のような伝承方法が求められたのか。「音楽論」では下記のように説明される。 

 

――日本の音楽では多くの場合、直接の伝承を経ずにその曲が演奏されると、その曲や流派が持つ正当性が損なわれるという独特の考え方がある。とくに秘曲などは口伝えで教えることこそが正当的な伝え方であり、あえて記録を残さないようにしていた。(中略)そうすることで伝承の崩れを防ごうとした先人たちの意図がそこには隠されているし、安易にコピーされて格式が損なわれるぐらいならばむしろ廃絶してしまったほうがいい、という壮絶な覚悟もある。(「音楽論」p144)

 

 ボイパにおいては、このように保守的な思想が見られることは、ほとんどない。なぜならば、そもそもボイパ自体が、本質的に「コピー」を歓迎する文化だからだ。コピーこそがアイデンティティといってもよい。「安易なコピーは、格式や伝承の崩れを招く」という古来の考え方とは、対立する。

 

 そもそもボイパはコピー(模倣)から発展した。これは「補論」で示したとおりである。インドのボイパ表現である「コナッコル」は、唱歌(ボール、ショルカットゥ)から発展した。また日本のボイパの歴史でも、コピーからボイパが発展した経緯がみられる(当サイト「模倣芸からボイパへ」参照)

 

 しかし、コピー機で複写を繰り返すと画像が荒くなっていくのと同じように、あらゆるコピーは繰り返すうちに劣化していくのが常である。そこで必要なのが、「ただしいコピーの方法」を学ぶことだ。

 先にも引用したが、KAZZは「『良い音にするための考え方』『イメージの持ち方』に力点を置いています」と述べている。これは「ただしいコピーの方法」を教えていると言い換えることができる。

 

 ボイパにおいて、コピーそのものはどんどん歓迎すべきだ。しかし伝統音楽とおなじように、安易な劣化コピーは防がなければならない。このとき必要なのが「ただしいコピーの方法」だ。自分の身体にもっとも適しつつ、理想とする音色を出すための思考法。それはどこまでも、暗黙知的な技術である。

 

 そして師匠から暗黙知を受け継いだ弟子は、免許皆伝後も自律的に「自分の身体にもっとも適した音色」を生み出し続けていくことができる。それはコピーでありながら、個性を宿したボイパである。まさに「熟練のわざ」と言っても良いのではないだろうか。

 

 

7.結論および今後の課題

 

 

 私たちは「ただしいコピーの方法」と、そこから生み出される「個性を宿したボイパ」を受け継いでいかなければならない。そのためには、YouTube時代にあっても、引き続き師弟関係が不可欠だ。

 これが本論の結論である。

 冒頭で書いたとおりこの文章は、さまざまな反論を想定した論文形式ではない。偏ったものの見方になっている可能性は多分にある。また、カバーしきれていない議論がいくつもある。最後に、今後の課題を下記に示し、この文章を終えたいと思う。

 

 まずは「コピー」という概念については、いま一度深堀りして検討する必要がある。フランスの思想家、ジャン・ボードリヤールは、オリジナルとコピーの中間的な概念として「シミュラークル」を提唱している。「オリジナルなきコピー」とも訳されるその概念は、ボイパの存在そのもののように思える。ボイパはすでに「楽器の模倣」という役割を離れ、その存在そのものに価値を持ちはじめているからだ。本論で示した「個性を宿したボイパ」は、シミュラークルと近い概念なのかもしれない。

 

 ボイスパーカッションと近い文化であるところの「ヒューマンビートボックス」の現場について考えなければならない。ビートボックスはそもそも個性こそを是とするヒップホップ文化を前提としている。その一方で、YouTubeをメインとするハウツー動画は、ボイスパーカッションよりもビートボックスにおいてむしろ盛んである。このあたりの考えについて、ビートボクサーの意見を聞いてみたいところである。

 

 ボイパにおける「わざことば」についても体系づけていきたいと考えている。KAZZは「ボイパ道場」で「ボイパは歌であれ」と伝えていた。これはわざことばに相当するものであると考えられる。ボイパにおける「わざことば」の例がもしあれば、ぜひお寄せいただけると幸いだ。

 

ページ作成:2020年5月6日

※1…「音楽論」2016、武蔵野美術大学出版局、p135

※2…「音楽論」p136

※3…「音楽論」p138

※4…「伝統工芸の『わざ』の伝承―師弟相伝の新たな可能性―」p147―150、169―170

※5…「伝統工芸の『わざ』の伝承」、p169

※6…「伝統工芸の『わざ』の伝承」p169



参考

・白石美幸編著、横井雅子著、宮澤淳一著「音楽論」(武蔵野美術大学出版局)

・林部敬吉、雨宮正彦著「伝統工芸の『わざ』の伝承」――師弟相伝の新たな可能性――(酒井書店)

・金沢市公式ホームページ|加賀獅子(https://www4.city.kanazawa.lg.jp/s/11104/bunkazaimain/shiteibunkazai/minzoku/kagajishi.html)2020年5月6日閲覧

・英語版Wikipedia|Konnakol(https://en.wikipedia.org/wiki/Konnakol)2020年5月6日閲覧